フィリピン見聞録4日目

前回新しく来た日本人の方の紹介を忘れていました。
京都から来たというMさん。大学では国際交流の学部?に入っていて、その関係でミャンマーに行ったり、個人で1人旅をしたり。まさかの同い年でトラックの上で色んな話を聞いた。
2日間だけだけども、一緒に行動することになります。

さて、今日はMCLの子供達が通う学校を見学させて貰うのと、昨日とはまた別の被害が大きかった村へ奉仕活動の手伝いをする予定。

赤道直下とはいえTシャツ短パン姿ではフィリピンの朝は肌寒い。起き抜けで朦朧とする中、皆と一緒に朝食を済ませ、学校に行く子供達を見送った。

↑僕が寝泊まりさせて貰っている建物。1階が食堂、キッチンで、2階が寝室になっている。

今日学校がない子供達としばらく遊んだ後、トラックに乗り込み学校へとむかう。(もちろん荷台)

最初に向かったのは中学校。校舎の損傷が激しく、今は元々体育館?だった所で授業をしているみたいだ。

コンクリートの壁にはヒビが入り、中には崩れ落ちている所も。倒壊した訳では無いが、これでは不安で授業もままならないだろうね。


掃除中の子供達の中にMCLの女の子を何人か見つけたら嬉しそうな笑顔。最後に校長先生に挨拶をして、次に向かったのは小学校。

門をくぐると素敵な花壇が迎えてくれてた。名前はほとんど分からないけどカラフルな花々が植わっていた。

まず職員室で名前と住所を記入して、いざ教室へ。この小学校も、先の地震で校舎にヒビが入り、一時は17クラスあったのが2クラスに減ったのだそうだ。

クラスがあるという所に向かうと、確かにブルーシート囲まれた仮設教室が見える。ひとつひとつ見て回ると、わざわざ先生が授業の手を止めて子供達に「来てくれてありがとう、ようこそ!」と言わせる。

↑写真に写っているのは男性教員だが、フィリピンでは男性教員は珍しく、女性が教員を務めるのがほとんどだと言う。ここも、さっき行った中学校も女性が校長を務めている。

やらされているといった雰囲気はあるものの、子供達の顔は何やら嬉しそうで、笑顔に満ち満ちていた。

以下写真









一通り見てまわると、丁度予鈴が鳴り、昼休みに。校門の前に昼食を売りに来るそうなので向かうと数人のおばちゃんが、ミカンや砂糖を絡めたバナナなどを並べていた。

子供達が十数人行列を作って、小銭を握り締める様は、売店というより、どちらかと言えば駄菓子屋に近いものを感じる。

一服を終え、次に向かったのは地震の被害が大きかった山村。ここにはMCLが作った託児所があったらしい。

かなりの坂と未舗装道路を超え、村に到着。
最初に被害があった村の中心部を見せて貰ったのだけど、託児所含めコンクリートを打ってある建物はこどごとく破壊されていた。

壁が崩れ、柱が剥き出しになって、床には瓦礫が散乱していたのは学校。幸い生徒教員に死傷者はいなかったそうだが、、。

この村では中園さんが集めた服や靴を子供達に配るお手伝いをした。国の方針で、靴を履かないと学校に行けなかったり、(身なりをただすと言う名目) 産まれた赤ん坊の服がなかったり。

服や靴なんか持っていっても、と思う方もいるだろうけれど、衛生上の問題や、先の訳分からんルールを踏まえると必要なことなんですね。

以下写真










山村を出たあとは街で昼食を頂いてMCLに戻った。子供達と遊んだり話したりしているうちに夜が来た。

明日には出発する。

フィリピン見聞録3日目

フィリピンでは首都マニラがCovid19ウイルスによって封鎖されて久しい。
ついこの間までIsisゲリラと銃撃戦を繰り広げていた国だ、封鎖に反対、違反した者は射殺する、というフィリピン政府の強行さにはさほど驚かないけれど、
そのような緊張の中暮らしている人達がいるという事実は不思議と実感出来る。
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今度は蚊の痒さで目が覚め、結局二度寝もままならずに起きた。今日は朝から地震の被害が大きかった山の村に炊き出しに行くようだ。

朝食の後、支援物資をトラックに運ぶ手伝いをする。米、コーヒーのもと、トイレットペーパー、生理用品etc…自分たちの食料でさえも安定しないと言うのに、積極的に支援もしている。正直僕には考えられない。

飢餓や貧困から遠い場所で、十分すぎる程の物にまみれて生活している僕にその意識が分かるはずもない。ただ手伝うこと以外は考えられなかった。

全ての荷物を積み終え、トラックの荷台に乗って出発した。こちらの法律では荷台にのっても捕まらない。オープンカーさながら風を感じ、広大なバナナ農園や道行く人々を眺めて行くこと2時間程で山中の村に到着。

この村を抱える山の名前はアポ山と言ってフィリピン最高峰の2954メートルとか。村自体も相当高い標高にあって、ミンダナオ島が見渡せた。

村は急勾配な道路のすぐ脇に広場を構えていて、その広場を中心にブルーシートで覆われた避難住宅を囲んでいる。

MCLの子供達が広場の中心にあるステージの前に座ると、どこからか子供達がわっとやってきて、読み聞かせを黙々とも聞いていた。

↑チャンポラドの鍋。当然ガスなど無いので焚き火で炊いていた。

特にする事もないので昼食を作っている大人たちの所に行くと、のコーヒーを頂いた。

美味しいのだけどあまりに甘くて顔をしかめてると中園さんが、人間の文明発展と味覚の関係の話をし始める。甘さから始まって渋みとか苦味に落ち着くとかどうとか。

ホッと一息ついたあと、村長に話を聞けるというので、地震の被害状況を聞きに行った。

以下聞いた事

アバンドン村
全世帯137(内ビサヤ族4、マノボ族133)

村の裏山に地震で亀裂が入り、地滑りの危険性から政府が立ち退き要請。今避難している土地は何処かの教会が所有していて、寄付してもらった。

農業を営んでいたが、戻って仕事するのが怖いので現在は別にあるプランテーション農家へ出稼ぎに。

今最も必要なもの
・食べ物
・建材、ブルーシート

↑村人達。滅多に見ることの出来ない素朴な笑顔に魅せられる。

村長に礼を言って、持ってきた支援物資の配給を手伝う。見ず知らずの、どこの国から来たかも分からない僕に「サラ・マ!(ありがとう)」とはにかむお姉さん。

米袋と日用品の袋を赤子のように(家庭には本当に赤子が待っているのかも知れない)抱き、家に戻るお母さん。

名前を呼ぶと「ほら!あんただよ!」と名を呼び手招きしてくれるおっちゃん。

↑子供達が支援物資と乗ってきたトラック。

物資は足りなくなることは無く、村民全員に配られ、皆で昼食を頂く。昼食はチャンポラドというお汁粉のような食べ物で、米をカカオと牛乳、砂糖で煮たものだそうだ。
これまたとても甘かった、何故だかもう一杯飲みたくなったけれど。

最後に被害のあった村を見て回り、この村の観光地の滝で水浴びをした。

村はゴーストタウンと化していたが、何人かはまだ住んでいて、土産屋もやっていた。キーホルダーとネックレスを購入。

帰りは皆疲れてトラックの上ですっかり昼寝。

MCLに戻った後、マーケットに向かい、マグロと野菜を購入。夜ご飯はキニラというこちらで言う刺身のようなものを頂いた。

↑市場のマグロ!

夜、中園さんと、長話をして寝る。

フィリピン見聞録2日目

フィリピン見聞録2日目

5時過ぎだったろうか、子供達の声で1度目を覚ました。MCLの子供達の朝は早い。

掃除をし、身支度を整え、かまどの火で朝食を作る。朝が涼しいのも早起きの理由の一つだろうけれど、朝が弱い僕には彼らの習慣は眩しく映る。

…なんて思いながら二度寝し、およそ1時間後、鐘の音と「Time to eat~」の声で起こされた。食堂がある階下に降りると既に子供達が揃っていて、お皿と食べ物を囲んでいた。当番制だろう食前のお祈りを済ませ、朝食をよそい始める。今朝のメニューは赤いソーセージ1本とイワシの塩焼き、ご飯。

話に聞いてはいたが、なんて質素な食事なのだろう。おかずが1品の時もあるのだとか。米は自給自足していて十分足りているので飢えることは無いだろうけれど、満足に成長することは出来ないだろう。

食後はウェルカムパーティをやるらしい。皆で練習した歌やダンスをカホンやギターの音色に合わせて披露してくれた。特に、部族や宗教ごとに別れて各々代表する曲を歌ってくれたのは印象深かった。

ここMCLにはフィリピンの少数民族ーマノボ族の子供達やイスラム教、キリスト教の子供達がいて、例えば特別な場合を除いて豚を食べないようにしたり、受け継がれた歌を練習したり、互いを尊重しながら暮らしている。

子供達の発表があり終わった後は拙い英語で自己紹介を済まして、早速持ってきたラケットとボールでフレスコボールを教え始めた。


↑フレスコボールはブラジルのスポーツで、最も大きな特徴は打ち合う相手と「競わない」こと。 2人1組でボールを打ち合い、ラリー数や打ち返す技で得点を稼ぐスポーツです。

MCLには以前、バドミントンラケットを持って行ったそうなのですが、シャトルやラケットが壊れると遊べなくなります。そこで調べた結果、ラケットが木製で自作可能、ボールも壊れにくいフレスコボールを伝えることにしたのだそうだ。

そんな訳で、全くの初心者だった僕が経験者の方に指導してもらって、教えていて、しかし中々これが難しい。ボールは、力を込めると簡単に遠くに飛んでゆくし、僕自身、上手く返せないので中々ラリーが続かない。

正直、ちゃんとスポーツを教えられているか不安だし、楽しんで貰ってるかどうか分からないけれど、進んで教えてもらおうとする好奇心旺盛な子供達を見ると安心した。良かった。


しばらく教えた後、日差しが強くなり日なたで体を動かすのが辛くなってきた。冬とは言えど赤道にほど近いフィリピンは暑い。

休憩がてら仲良くなったJojo少年に敷地内を案内して貰ったり、敷地内の木に生えている果物を貰ったりして時を過ごした。

ちなみにJojoは本名で、ジョジョの奇妙な冒険と言う漫画を知ってるか?と聞いたらジョジョ立ち(漫画の中ででてくる特有のポーズ)で返してくれた。ジョーク、イタズラ好きだが憎めない奴で僕は好きだ。

昼前、このエリアの自治体の19周年パーティがあるらしいので着いて行く事にした。MCLの子供達がダンスを踊るそうだ。

自治体集会所へと向かう道中の図。
この舗装路もほんの少し前までは未舗装だったそうだ。バナナの木や、ゴムの木など、地元ではまず見ることの無い木々が生い茂っていて、沖縄の情景を思い出した。時間が止まったようで懐かしい気分だ。

パーティではお偉いさんのスピーチや世間話(全てビサヤ語)が延々と続いた後、皆で持ち寄ったご飯を頂く。正直なぜ無関係な僕がこんな場に居るのか良く分からなかったけれど悪くない気分。

MCLに戻って、少し休んだ後キッダパワンの街に買い物へ。来た時は夜だったので詳細な街並みがくっきり見えて首が落ち着くことを知らない。↑構造上の問題も多いようだが、倒壊しかけのビルがあったり、その他亀裂の入った路面や壁など、地震の爪痕は至る所に。

まずホームセンターでフレスコボールのラケットの材料を買ったあとに、市場で全員分の鶏肉と野菜を購入した。

市場では湿った空気と生臭い匂いに混じった、行き交う人や声に圧倒された。少し前に香港の泥棒市場に行ったことがあるのだけれど、それとはまた違った危なげのない生活感があった。ともあれそんな活気さに戸惑ってしまう。

↑同じように鶏肉を売る店を幾つも見かけた。競争にならない不思議。市場で価格が決まっているのだろうか?外国人の僕が知る由もないけど。

全ての買い物を終え、再度MCLに帰ってきた。昨日の今日なので休みたいなぁと内心思っていたが、MCLの青年達に誘われバスケットボールの3on3に参加することに。結局日が暮れかかるまで続けた。

シャワーを浴びて、夕食を食べ終わった頃には筋肉痛に悩まされる事になる。夜何時だったか忘れたけど床に就く。

↑シャワーはこんな風に。川でシャワーするのに慣れているので、造作もないけど、誰しも最初は抵抗を覚えるだろうね。

フィリピン見聞録1日目

6時半にふと目が覚めた。昨夜音楽を聞きながら寝たせいかイヤホンが絡まり、首の辺りが少し痛い。
中園さんも目が覚めたようだ。
改めて荷物を整理し、航空券の確認をして7時発のシャトルバスに乗り込む。

今日も例に漏れずバスで面白い話を聞いた。今日は宗教について。(本来の)ブッタの教えは科学的、哲学的で素晴らしいが救いがないから広く流行らなかった…とかフィリピンのカルトキリスト教の問題だとか、、、

宗教学は人類学や、社会学、はたまた自然科学まで、あらゆる切り口から見ることが出来るので知れば知るほど面白いらしいが、なるほど、何となく硬いイメージのあった宗教学も捉え方によっては面白そうだ。

そうこうしているうちに関西国際空港に到着。念の為マスクを装着し、まず、中園さんがあらかじめ空港に送っておいた巨大なダンボールを取りに行った。

ダンボールの中身は寄付された子供服、靴、カバンと僕が教える予定でいるスポーツ「フレスコボール」のラケットとボール。

フィリピンの子供達に渡るまで見届けるのが中園さんの拘りで、国際郵便を使って送る事は無いのだそう。僕もこの手で手渡すのだろう。
フィリピン航空のチェックインカウンターで4つの箱を託し、10時のフライトで出国する。


マニラでの乗り継ぎ含め8時間のフライトでダバオ空港、ダバオ空港からはMCL(Mindanao Children Library)の職員さんがKidapawanというMCLのある街まで送ってくれるらしい。

無事飛行機も離陸し、一路マニラへ。4時間のフライトは機内食を食べたり本を読んだらすぐ過ぎた。着陸の時、空港の柵ギリギリまでポツリポツリと見えた錆びたトタンの民家がひどく印象的だった。

教科書やネットでは感じられない経済的な「貧しさ」を直に感じたからだろうと思う。

フィリピンは赤道にほど近い場所にあるので飛行機の外は蒸し暑かった。検疫の手前でコロナウイルス対策の熱探知カメラがあって立ち止まるよう声をかけられる。

ここフィリピンでは僕ら日本人は検査の対象なのだと身をもって知った。

国内線に乗り換え、空港内のカフェで昼飯も兼ねてゆっくりしているとあっという間にダバオへの飛行機がやってきて、マニラ〜ダバオ間も滞りなく行く事が出来た。

17時すぎ、ダバオ着後、日本の空港からやって来た旅行客をチェックしていたのには驚いたけれど...マニラのように体温を測るわけでもなくすんなり検疫、税関を通り抜けることが出来た。

四つのダンボールを受け取り、MCLの迎えの車を待つ。が、待っても来ない、探しても居ない…と言うので中園さんが連絡を取ると、結局お互いの待ち合わせ場所が違っていたとの事。
1時間程遅れてしまったが会えてよかった。


運転手さんの名前はジェニーボーイ。32歳の家庭を持ったお父さんで、MCL出身、今もMCLのスタッフとして働いているそうだ。

寡黙で真面目そうな雰囲気だが、話すと以外に気さくな人だというのがわかる。日本にも運転手として行ったそうで、空港までの送り迎えは彼が担当してくれている。帰りもお世話になる予定。


日は沈み、オレンジ色に染まる山間の雲が夏を感じるからかどこか懐かしく感じた。

赤十字の寄付で貰ったという日産ナバラの荷台に箱をのせ、出発。ありえない交通密度の中をジェニーボーイの巧みな運転でスルスルと抜けていく。信号などほとんど無いに等しいのに、流石だ。巨大なモールと民家の明らかな差に違和感を覚えつつも、クラクションの鳴り響く夜のハイウェイ通り過ぎて行った。

小一時間たった後、休憩と夕食がてら、道沿いにある食堂に入った。名前をアンリミテッドUnlimited。ジェニーボーイ曰くご飯が食べ放題だからそう名ずけられたのだそうだ。
豚の角煮のような物と鳥の内蔵の炒め物、ご飯とコーラを頂く。味は、タイや中国のそれよりも沖縄のあまじょっぱい物に似ていた。

…と舌づつみを打っていると、妙にウェイトレスの女の子たちの目線がこちらを向いている事に気付く。コソコソ喋ったり、目が合うとキャーッ!と言ったり…

そんな対応に照れながらも、ジェニーボーイに訳を聞くもニヤニヤしてはぐらかされる…。
中園さんの注釈が入り、やっと理解したが、どうやらこちらの女性にとって恋愛は一大事業のようで、しかも、男性より女性の方が積極的と言ったしまつで、良さげな男性に手当り次第声をかけるのだそうだ。(ここで自分の事を「良さげ」と表現する事にとてつもない恥ずかしさを覚える)

そんなこんなで目をつけられた訳なんだけれど、こういったあからさまなナンパを受けた事もした事も無いので困ってしまった。
勇気を振り絞ってその女の子に話しかけてみると、どうやら歳は21歳、顔がカワイかったから気になった、のだそうだ。恐ろしやフィリピン人女性、、、彼女らの顔に、多少の気恥しさあれど、それくらいの度胸が僕にも欲しいものだ…

さて、そんな浮いた話はさておき、ジェニーボーイと中園さんにさきの食堂での事をいじられつつ再び出発。ISISゲリラあぶり出しの為の軍の検問を通ったり、割れた道路に地震の爪痕を見つつもMCLに到着した。

入り口には永田純子さんが持って行った飛び出し坊やと、彼女が亡くなる前の思いを受け、置かれた「じゅんこ地蔵」が置いてあった。
10時すぎだと言うのに男の子たちが数人出てきて荷物運びを手伝ってくれた。フィリピン人マネージャーのナナイさんに挨拶をして、今回使わせてもらう部屋へ。全体は木造、壁はバナナの葉っぱで出来ていて、最初はビックリしたけれど、しかし、これほど目に優しく通気性の良い建材は無いだろう。
2段ベッドの下段に寝転がると疲れがどっと溢れてきた。いつぞやかに就寝。

フィリピン見聞録0日目

今日は出発前日。朝起きると雪が降っていた。今シーズン初雪だ。今日はバイトが入っていたけれど、早朝出勤ではないので、再度布団に潜り込んだ。

1時間後には起きて、リビングで母と朝食をすます。浜村淳のラジオがいつもの様に流れていた。昼前にバイト先(montbell)へ出勤。今日は初雪が降って冷えたのもあってお客さんが多く、やや忙しめだったが、つつがなく終了。

沖縄出張から帰ってきた父と送りに来た母に見送ってもらって1人、空港前のホテルに向かうため、駅へ。雪は降っていないものの軽装だったので恐ろしく寒かった…

大阪で関空快速に乗り換えるも、関西国際空港りんくうタウン間の線路上で火災があり運転を見合わせるとのこと、流石にどうしたものかと色々画作していたが、そうこうしているうちに運転見合わせは取り消され、杞憂に終わった。まぁ良し。

23時過ぎ、無事りんくうタウン駅に到着。ホテルのエレベーターで南アフリカから来たというパイロットのおっちゃん達と立ち話。コロナウイルス対策か、やはりマスクをしていた。

Nさんと部屋で合流。あらかじめツインの部屋を取っていてくださった。いつもの様に博識な彼の話を聞いて、ベットに横になった。
明日はシャトルバスが早いので起きるのも早い。てっぺん回ってすぐに就寝。

フィリピン見聞録

皆さんこんにちは。
機会あってフィリピンのミンダナオ島にある孤児院(正確にはMindanao Children Library)にフィリピンやネパールの支援をされている方(以後Nさん)が誘って下さり、行くことになりました。このシリーズではその記録を共有しようと思います!

さて、今回のフィリピン行きは、ぶっちゃけ薄っぺらい好奇心で即決したのですが、それ以上に、フィリピンの子供達の事を嬉しそうに、時に心配そうに話すNさんを見ていると、自分の事しか考えていなくて、共感しきれない自分が少し気持ち悪くなったんですよね。

フィリピンの事について本を読んだり、話を聞いていけばその気持ち悪さと向き合ってきくことも出来るのでしょうけれど、行かなければわからない事の方が多いでしょうし、出来ることもわかってくると思うんです。

さておき、今はフィリピン行きの飛行機の中。どうなるだろうか楽しみですね。

では。

織人

2月7日関西国際空港

6日目 ニュージーランド自転車旅行記 前編

6日目です。6日目はニュージーランド内で最長の距離を漕いだ日でした。

長距離を自転車で、しかも荷物を積んで走るというのは自分がサイクリストである、という一種の意地があるのだと思います。

でも、勘違いしないで欲しいのは、僕は自転車を漕ぐのが好きなのではなく、漕ぎきった後にテントに潜り込む瞬間だったり、地図に赤いペンを塗ってゆく瞬間が好きなのです。

 

5時28分に起きた。昨日調べたフリーダムキャンプ場は180km先にあるので急いで朝食を摂り荷物を片して6時半に出発。

ケータイの充電が切れたので、国道への道が分からなかったが「Auckland①」の標識を頼りに朝靄の中、見知らぬ港町を走る。

ニュージーランドにしてはやや大きめのその田舎町は、都心と言う訳では無いのに自転車道路が充実していて走りやすい。なので簡単に国道に抜けることができた。f:id:origin8explore:20200102122426j:image↑車道に自転車の居場所が明確に区分されているだけで、サイクリスト達にとっても、ドライバーにとっても良い事だと思う。因みにこれは昨日の写真。

 

40kmほど進んだ頃、日が完全に昇ったので、爽やかな空気を感じながら鉄道レール沿いのガードレールに腰掛けて少し休憩する事に。

霧を孕んだ林と草原に囲まれ食べるリンゴは美味かった。(ここのリンゴはどれも美味いのだが)

サンオイルを塗って、音楽を聞きながら精神統一の後再出発。長距離では走っている途中に「サボりたい」「疲れた」と思うことほどの壁は無いので休憩の時間は何も考えない様にするのが重要だったりする。(この時点で9時05分)

ペアで旅している自転車乗り(同類)と挨拶を交わして元気を貰ったのもあり、調子を落とさず漕ぎ続け、建築デザイナー、フンデルトヴァッサー縁の地、Kawakawaに到着。

ここKawakawaはニュージーランドを愛した彼が晩年大半を過ごした小さな街。そんな街に彼がデザインした公衆トイレがあるらしい。f:id:origin8explore:20200108103016j:image

街の中にひょっこりと現れたそれは「あぁこれね」と言わんばかりで、しかし、Kawakawaの街に溶け込んでいた。

写真を撮り、当然の如く中で用を足してKawakawaを出発。所々にフンデルトヴァッサーのデザインを真似た柱や壁紙があったが、どれも彼のデザインには届かない。チープな模倣具合はどこか愛らしくも感じるけれど。

昼過ぎ、国道の分かれ道にある「junction cafe&daily」(分かれ道カフェという安直な名前だが実在する https://goo.gl/maps/kNVMxyFWGCzBEtbk8)で昼食。一時間半ほど休憩した。

 

後編へ…